先日、ある方からご連絡をいただいた。
それプラス自分でも最近のこととか、漠然と感じていたこと。
殿は、入院時にBUNが102、Crが11.5だった。翌日、BUNは計測不能なほど上昇。
オシッコがまったく出ず、利尿剤を使っても反応なし。そのままでは翌日にも逝ってしまいそうだった。
エコー上では両)腎臓の肥大も萎縮もなし。
両側の腎臓が一気に働かなくなったことを考えると、血栓の可能性は低い。かといって、CRFでもなさそう。おそらく、何らかの原因でARFを起こしたと考えられた。
それが何なのか、今でも分からない。
入院3日目にオシッコがようやく出るようになり、それとともにBUNも下がってきて、昨日は52まで下がった。
それでもまだ高い値だけど、とりあえず山は越えたとみていいだろう。
面会に行くと、意外なことに殿は病院の人たちにも喉を鳴らしたり、お腹を出して見せると言われた。
ゴハンも、少しずつではあるけれど食べてくれているらしい。
もう少し点滴を続けて、あとは腎機能が落ち着いてくれるのを待つだけ。
今回、最初に診てもらった時。
先生が言うように「胃腸薬の処方」だけで様子を見ていたら、おそらく殿の命は手のひらから零れ落ちてしまっていただろう。
何かおかしいと、そう感じたあの時の自分の感覚を、今は褒めてやりたい。
いつもそううまくいくとは限らないし、むしろ見当違いなことのほうが多い。
でも今回に限っては、自分の感覚が正解だったんだろう。
やっと、今回は何とか間に合った。
そう思って、不覚にも涙がこぼれそうだった。
今までに何度も何度も、「どうして気づけなかった」「もっと早く気づいていたら」「何を見ていた」と感じることばかりだった。
だから、やっとここでぎりぎり殿を守ることができそうで、安堵した。
仕事柄、いろんな人やその家族と出会う。
闘病中の人。
ターミナルの人。
みんな、それぞれが家族背景や環境で選択する手段が異なる。
医療者から見て、「もうやめた方がいいんじゃないか」「これ以上続けても、つらくなるだけだ」
そんなケースもたくさんある。
あの時治療継続を選んでいなければ、こんなに苦しまなかったんじゃないか。
もっと穏やかに暮らせたんじゃないか。
そう思わせるケースが、ここのところ続いている。
よくBSCって言うけど、どれが正解かなんて分からない。
というより、そんなものはないのかもしれない。
だからこそ悩むし、どうすれば一番いいのかを考えてもがくしかないのかな。
「死にたくない」
「つらい」
「頑張ってほしい」
どれもが理解できるそれらの想い。
でも、つらいのは誰なのかな。
その人の望みは、何なのかな。
以前、もうターミナルでBSCの人がいた。
その人は闘病中でもいつも笑顔で、家族にも医療者にも愚痴ひとつ零すことがなかった。
そんな時、ある人が聞いたそうだ。
「どうして、いつも笑っていられるんですか」
するとその人は
「だって僕がつらい顔をしていたら、みんな悲しくなるでしょう。だから笑ってるんだよ」
結局、最期までその人は笑ったままで、悲しみも怒りも見せなかった。
それがいい事か悪い事か、そんなことではなくて。
その人の生き様は悲しいようにも思えるし、立派だったとも思えるし。
でも、本当に望んでいたことは何だったのかと今でも思う。
周りのみんなが笑っていられること?
それを叶えて、その人はよかったと思いながら逝ったんだろうか。
つらくはなかったんだろうか。
本人しか、分からない。
この間、もうどう考えても治療効果は望めないであろう人がいた。
でも家族は治療継続を望んだ。
わずかにでも可能性があるのなら、頑張ってほしい。
そう願った家族。
この世に100%は、そうはない。
だから、奇跡が起こることだってある。
やらずに後悔するよりは、やって後悔する方を選んだんだろう。…っていうか、後悔すら考えたくないほど、一縷の望みにかけていたのかな。
でも結果としてそれは、逆に命を縮めて苦しませただけのようになってしまった。
最期まで、その人は苦しんで苦しんで、少しも楽になることなく逝ってしまった。
逆に、「どんな治療であれ方法があるのなら何でもやる」と自ら望む人もいる。
その人は、傍から見ていて顔を顰めてしまいたくなるくらい、苦しみぬいていた。
以前は明るく快活な人だったのに、それこそ人が変わったかのように陰鬱で近寄りがたくなった。
常に周囲を拒絶して、それでも「生きる」「死にたくない」その望みだけを必死に握りしめていた。
声すら出せない状況で、その人は最期に目で訴えかけてきた。
「死にたくない」
「助けてくれ、怖い」
たくさんの人が、目の前を通り過ぎていく。
これからも、数えきれない人が去っていく。
その度に、自分は何を想うだろう。
何を感じて、悩むだろう。
動物医療に於いて、動物はその意思表示を人間に汲みとってもらうことは、人以上にもっと難しい。
多分。多分だけど、人と違って動物はもっとシンプルに、「生きる」という目標に向かっていると思っている。
だから最後の最後まで生きることを諦めないだろうし、自分から命を絶つという選択肢もないだろう。
仮に回復の見込めない状況であったら、自分は猫たちに何を見るだろう。
猫たちは、何を望むだろう。
「どんな状態であっても生きていてほしい」
「苦しむ姿を見たくない」
それはどちらも素直な感情だけど、そこにあるのは「自分の欲求」であって、「猫の欲求」ではない。
彼らが何を望んでいるのかなんて、永遠に分からない禅問答のようなものなのかもしれない。
でもだからこそ必死に考えるし、その子にとって何がよりベターであるかを、自分の中へ問いかけるしかないんだろう。
それが結局のところ、自分の中から出てきた答えであれば「自分の欲求」に根差したものであろうとも。
お手紙をいただいて、それまでとても後ろ向きというか、やけっぱちに「頑張るしかないでしょ」と思っていたものが、肩の力が抜けたみたい。
素直に前向きに「頑張ろう」と思えた。
うん、そうだね。頑張ろう。
週明けあたりに、殿の退院目標をたてた。
若も寂しがっている。
はやく帰っておいで。